トーマス・マンは、「ヴェニスに死す」の中で、美少年タジョの描写に何十行という形容を費しています。
彼がはじめて登場する場面は、ー蒼白く優美に内部へと閉ざされた顔には蜜色の髪がまつわり・・・―という描写ではじまって、この少年がーぼうっとした灰色をした眼・・・―をもっていることがわかるまでに、読者は相当に長い文章を読まなくてはなりません。
美しいヒロイソの描写でないのが残念ですが、この作品のはじめで、主人公アッシェンバッハが、最初に遭遇したひとりの男についての描写を、一例として引用してみることにします。
「中背で、やせてひげがなく、目立った団子鼻の男は、赤毛タイプの人間で、このタイプ特有の乳色でそばかすの多い肌をしていた。
およそバイエルン人でないことははっきりしている。
実際、少なくとも、頭にかぶっている縁の広くてまっすぐな経木帽子を見れば、彼が他国の人間で遠くからやってきたのだ、という印象を受けた。
そのうえもちろん、この辺ではありきたりのリュックサックを締め金でとめて肩にかけ、粗い毛織物らしいベルト付きの黄色っぽい服を着、脇腹にあてがった左の腕に灰色のマントをかけ、石突きが鉄になっている杖を右手ににぎってそれを床にななめにつき、その握りの上に腰をもたせかけていた。
頭を高く上げているために、ゆるいスポーツシャツからひょろりと伸びている頸に、のどばとけが強く、むき出しに突き出ていて、眼のあいだには短く反った鼻とひどく奇妙な調和を見せつつ、二本の垂直で力強いしわが刻まれていた。
まつげの赤い、色彩のない眼で、男はうかがうように鋭く遠くを注視していた・・・・・」。
まだまだこの男の描写は続くのですが、このあたりまででも、西欧文学における人物の外面描写の刻明さはよくわかるロマンの場合は、描写が入念なことでとりわけ有名なのだそうですが、それにしても、ここに描かれている男は、主人公が電車を待っている二、三分の間に見かけただけの、小説の本筋とは何の関係もない人物なのだから驚くほかはありません。